「側室」の検索結果 (13件)
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側室
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側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。
土方氏 (織田信長側室)
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土方氏(ひじかたし、生没年不詳)は、安土桃山時代の女性。織田信長の側室。詳しい経歴は不明である。信長との間に九男・信貞を産んだ。土方雄久の娘と言われるが(『寛政重修諸家譜』)、一説に青山某の娘ともされている(『織田家雑録』)。
坂氏_(織田信長側室)
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坂氏(さかし、生年不詳 - 天正11年〈1583年〉4月)は、安土桃山時代の女性。織田信長の側室。織田信孝の生母。名は不詳。
坊門局 (足利義満側室)
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坊門局(ぼうもんのつぼね、? - 応永31年(1424年))は、室町時代前期から中期にかけての女性。第3代将軍・足利義満の側室。
寿光院 (徳川綱吉の側室)
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寿光院(じゅこういん、正字体:壽光院、? - 寛保元年10月10日(1741年11月17日))は、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の側室。通称は大典侍(おおすけ)。江戸城本丸大奥ではなく、北の丸に新御殿を建てて居住したことから北の丸殿とも呼ばれる。
慈光院_(島津重豪側室)
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慈光院(じこういん、? - 享和元年10月30日(1801年12月5日))は、薩摩藩主・島津重豪の側室。11代徳川幕府将軍・徳川家斉の御台所・茂子(広大院)の母。父は市田貞行(薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽出身とされる)、弟に市田盛常がいる。生前はお登勢の方を名乗っていた。
於久の方 (松平広忠側室)
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明鏡院 (織田信長側室)
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明鏡院(めいきょういん)は、安土桃山時代の女性、尼僧。織田信長の側室。『系図纂要』等によれば、信長の庶長子織田信正の生母で、塙直政の妹。名は直子と伝わり、法名が明鏡院智勝尼。塙直政が原田姓を下賜されているため、原田氏(はらたし)ともいう。
智照院 (徳川家斉側室)
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智照院(ちしょういん、? ‐ 文化10年(1813年))は、江戸幕府将軍徳川家斉の側室。名は八百。父は安部正芳。
本覚院 (加藤清正側室)
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本覚院(ほんがくいん、生年不詳 - 寛永3年4月9日(1626年5月4日))は、加藤清正の側室で、 清正の次男・忠正(幼名熊之助)の生母である。川尻殿。 出自は菊池氏とされるが確証はない。豊臣秀吉の九州征伐のあと、肥後の大名として入国した佐々成政に反抗して肥後国人一揆を戦った国人の一人、菊池武宗の女との説もあるが、不詳である。 嫡男とされた忠正は江戸幕府が開かれた後、慶長10年(1605年)に新設された加藤家江戸藩邸に将軍家への人質として入り、わずか2年後の慶長12年(1607年)に疱瘡のため9歳で夭折している。本覺院は肥後の軍港・物資流通の重要な港であった川尻町の藩主御茶屋に置かれていた(「加藤家侍帳」元和8年)ので川尻殿と称されていた。寛永3年(1626年)4月9日、熊本で死去した。熊本市横手の本覚寺に墓がある。法名は本覺院殿月心日圓大姉。
深芳野_(斎藤道三側室)
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深芳野(みよしの、生没年不詳)は、戦国時代の女性。美濃国の戦国大名・斎藤道三の側室。斎藤義龍の生母。
清涼院 (徳川家慶側室)
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清涼院(せいりょういん、? - 弘化4年1月25日(1847年3月11日))は、江戸幕府の12代将軍・徳川家慶の側室。俗名は久、または定。 父は幕臣・押田勝長で、11代将軍・徳川家斉の側室で家慶の生母である香琳院の姪であるとされる。部屋子となった後、西丸御次、中臈となる。家慶の側室・秋月院も親類にあたるという説がある。 家慶との間には文化11年(1814年)に長女・達姫、文政2年(1819年)に次男・嘉千代を出産するが、いずれも夭折した。文政8年(1825年)に五男・初之丞(後の慶昌)を出産した。 弘化4年(1847年)1月25日に死去した。戒名は清涼院浄譽呑梁妙薫大姉。
荘厳院_(伊達政宗側室)
荘厳院(しょうごんいん、? - 寛永21年7月3日(1644年8月5日)は、江戸時代初期の女性。仙台藩初代藩主・伊達政宗の側室。